11

彼女が入れたコーヒーはお世辞抜きで美味しかった。

「お母さんの名前はリンダ・フックスというの。あなたの好きな女性に少し似ているわ」

エミリーは壁のピンナップを指して言った。

テイラー・スウィフト。

5年前に手に入れたピンナップだ。今ほど売れるとは思いもしなかった。

それにしても「少し似ている」という基準は、あてにならないな。俺はスカーレット・ヨハンソンそっくりの後頭部を持つ、フリーザのような顔と性格の女性を知っている。ケンジは節操もなく思った。言うまでもなく、俺の母親のことだが。

しばらく二人で話をした。

エミリーと一緒にいると、不思議と落ち着く。ケンジは開かれた窓に見えている、水平線を眺めた。エミリーはいろんなことを聞かせてくれた。

サムとリンダは、まだ離婚していないこと。

たいていの夫婦がそうであるように、どうしてもうまくいかない局面が二人に訪れて、それで別居することになったということ。

二人は別れるつもりはないということ。

エミリーは感情を交えず、淡々とした口調でこれらのことを語った。ケンジは静かに聞いていた。

「二人は他の夫婦と違って、お互いが強くなることによって、すれ違いが解決すると考えたの。私はそれを聞いて、賛成したわ。チェインバーグに無理やり連れていかれた、妹のアレンには気の毒な話だけど」

「なぜ、別れないんだろう」

彼女は一瞬戸惑ったが、首を傾げて微笑んだ。

「分からないわ。でも誤解しないでね。愛し合っていても、うまくいかないということがあるのよ。別れた夫婦がすべて愛し合っていたなんて言うつもりはないけど」

「あまりよく分からないな」

エミリーは沈黙した。彼女の目はケンジを凝視していた。沈黙はずっと続いた。

「何がわからないの」

エミリーは尋ねた。

「言っていることがさ」

そう言って、ケンジは慌てた。エミリーの表情が暗くなっていた。

「ごめんなさい。私、耳が悪いので滑舌が悪くて、言葉がはっきりしないの」

ケンジは慌ててかぶりを振った。

「ち、違うんだ。そういう意味じゃなくて」

彼女は顔を傾け、相変わらずケンジの口元ばかり見ている。気がつかなかったが、彼女の難聴はかなりのものだ。

「はっきり聞こえているよ。話をしていて、ちっとも気にならなかった。そんなに気にしないでもらいたいんだ。俺はあまり言葉を選ばない人間なんだ。わかるかい。物言いが雑なんだ」

彼女はやっと笑った。対人についての不安があるのだ。

ケンジは研究所での偽装パンダの話を話した。それからオットーが密かにリプリー警部補の見合いを知り合いづてに斡旋している話。既に三十人の女性に断られている話など、沈黙の埋め合わせに披露した。エミリーは腹を抱えて笑った。

「ところで、お願いがあるの」

「言ってごらん」

「私の母親は、そんなことを口に出すような女じゃないから、仕方がないけど。姉のアレンは、ママが下品な男に言い寄られて、アパートの玄関先で大喧嘩してたって、私に泣きついてきたの」

ケンジは頷いた。もう昼過ぎになっていた。そろそろチェインバーグへ行かなければならない。ベッドに投げ出していたデニムのジャケットに腕を通した。

「それで様子を見てきて欲しいの」

「君も行くかい?」

「怖くていけないのよ」

「怖くなんかないだろう。汽車に乗って、二時間くらいしか掛からない」

「でも、特急券はどうやって買えばいいの。自動販売機では売ってないでしょう?」

「窓口で聞けばいい。チェインバーグ行きの特急列車の切符をくださいって言えばいい」

「でもどの改札へ行けばいいの」

「それも聞けばいい」

「聞いてみて、笑われたらどうしよう」

「笑われればいいじゃないか。俺なんか、しょっちゅう笑われている」

「ねえ、何度も人の話を聞き返すと、相手の人は怒り出すわね」

「はぁ?」


「それはどうしてなの。私は聞こえないから聞き返しているだけなのに、そんなに迷惑なの」

「それはたぶん気の短いやつだよ。僕は怒らない」

彼女は、本当に不安なのだ。エミリーはうつむいた。

ケンジは少し胸が締めつけられるような気がした。

「でも、もう慣れちゃったけどね。本当はチェインバーグへ行きたくても行けないのよ。まだ学校が冬休みに入っていないから」

「わかったよ。僕が行こう。住所をこれに書いてくれ」

ケンジはメモ帳を差し出した。

エミリーも色々と大変なんだな、と彼は思った。

「怒ったの、ケンジ」

エミリーは尋ねた。

「怒ってなんかいないよ。一緒にチェインバーグへ行ったほうが良いんじゃないか、と思っただけだ」

「えっ?」

エミリーは聞き返した。ケンジは、もう一度言った。

「あのね。君もチェインバーグへ行ったほうが良いんじゃないかって言ったの」

「ああ、そうなの、ごめんなさい。でも行けないわ」

「でも、なぜ僕なんだ?」ケンジは眉をひそめた。「君の家族の問題だろ?」

エミリーは少し戸惑った表情を見せたが、すぐに答えた。「ケンジ、あなたは中立な立場だから。私やサムが行くと、感情的になってしまうかもしれない。ママもそういうのを嫌がるの」

ケンジは腕を組んで考え込んだ。「でも、俺が行っても何か変わるとは思えないよ」

「変わるかどうかは分からない。でも、ケンジが行ってくれるだけで、少しでもママの気持ちが落ち着くかもしれない。それに、サムも私も、今はどうしても行けないから……」

「どうして行けない?」

「パパはお店があるし、私は学校があるし」

俺はヒマかい。

ケンジは再び窓の外を見つめた。水平線が遠くにぼんやりと見える。今はカモメが飛んでいるのが見える。彼の心の中では、リンダの元を訪れることの意味について逡巡が続いていた。

「分かった」とケンジはようやく言った。「行ってみるよ。でも、俺に何ができるかは分からないけど」

エミリーの顔に安堵の表情が広がった。「ありがとう、ケンジ。本当にありがとう」

「それで、何を伝えればいいんだ?サムと君が心配しているって、それだけでいいのか?」

「そう、まずはそれを伝えて。それから、もしママが何か言いたいことがあったら、聞いてあげて欲しいの」

「わかった。でも、本当に俺で大丈夫か?」

エミリーは微笑んだ。「大丈夫よ。ケンジなら、きっと上手くやってくれるわ」

「本当に僕で大丈夫なんだな?」

「大丈夫よ」

「け、警察を呼ばれちゃったりしないかな」

「早く駅に行かないと、ケンジ」

ケンジはもう一度深く息を吸い込んだ。

カモメはまだ飛んでいたが、今はアホウドリのようにも見える。

あほー、あほーと鳴いてんのかな。

テーブルのメモを手に取り、ジャケットのポケットに突っ込んだ。

彼がリンダの元を訪れることで、エミリーやサムの心配が少しでも和らぐのであれば、やる価値はあるのだろう。

これはきっと神の使いだ。ローマ神話の恋の神、キューピッドの役だ。キューピッド、キューピッド、キューピッド…。

そう自分に言い聞かせながら、ケンジはチェインバーグ行きの駅へ向かった。

 

つづく

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